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フリー・ライターの森岡葉です。祖父 石川順が書き残したものをご紹介し、自身のルーツを探ってみたいと思います。
by jasminium14
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蛙の眼〔親日家漢奸〕〔羊群を追う〕

 叔母の死をきっかけに、祖父の書いた文章を掘り起こしてみようと始めたこのブログ。日々の仕事や雑用に追われて滞っていますが、少しずつ前に進めながら自身のルーツを確認したいと思います。

 叔母のインタビューが掲載されている月刊『リベラルタイム』4月号が届き、プラス志向の叔母の生き方に学ばなければならないなと思う今日この頃です。祖父の文章に貫かれているのは、中国を愛してやまない心ですが、私にそこまでの中国に対する想いがあるかどうか、いささか疑問です。祖父の言葉を胸に刻んで、これからの日中関係を考えていこうと思います。
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蛙の眼〔親日家漢奸〕


 中国では三年漢奸となれば真の抗日排日家になるといわれていた。排日とか抗日とかいうが、そうむやみに排日家になるものでもなし、抗日家になるものでもない。日本に縁を持ち、日本人に近づいて、いわゆる合作協力をやって見ると段々日本人が嫌になって来る。日本で親日家だといわれるようになれば、中国では漢奸だといわれる。親日家と漢奸と文字言葉は違っているが、同一人を指称するところに注意せねばならない。正しい真の親日家が漢奸であるという理はあり得ないのであるが、日本人はとかく中国人の立場に立って中国を愛し、しかるがゆえに日本と協力するという中国人よりも、中国人の立場を棄てても日本のためにつくす中国人を好み、そういう人でなければ親日家と考えなかったから、親日家すなわち漢奸というのがあながち誤りであるとはいえなかったろう。日本と協力する、すると機嫌がよい。日本側が希望なり、要求なりする。それを鵜呑みにすればとてもよろこんで、もう親日家とする。そうなるともうなんでもいうことを聞くものだと決めてかかって、こうしてほしい、ああしてほしいと注文する。全部呑んでくれれば問題ないが、一つでも断られれば忽ち御機嫌斜めである。


 中国人である以上、どうしても承知することが出来ぬことであっても、そんなことは問題にせず、うけるか、うけないかによって親日か排日かいずれかに決めてしまう。だから良心のあるものならば、いくら辛抱我慢の強いものであっても、終いには同調出来なくなる。しかしそうなると今までの努力、今までの誠意などは少しも顧みられず、却って非常な憎しみを持って徹底的にたたこうとする。三年も協力すれば、日本の求めるところが那辺にあるか諒解され、日本人のやり方がいかに利己的かつ厚かましいかということが分ってくるから、その裏切られた不快な感情からも排日家となり、抗日家となる。いい換えれば、日本ならびに日本人が分らない中は親日家にもなり得るが、本当に分るようになったら屹度抗日家になる。真の排日抗日家は日本をよく理解したものから出るというわけである。


 懇意な中国人が時々私に、「日本の学校では心理学を教えたことがないですか」と皮肉をいうた。「日本人は相手の立場なり、気持ちになって物を考えることをしたことがないですね」ともいった。「日本のいう親善は日本のいう通りになれというのに等しく、それは奴隷になれということですね」ともいった。いかにも尤も千万なことであって返事のしようもない。事実いかにもその通りであって、中国人の不思議がるのは当然であった。というのは私自身も最も不思議にして解し得ぬこととして、いつも機会あるごとにその非を指摘強調していたのであるが、その効果はさらになく、平素話している中にはよく諒解していながら、さて当局となり、当事者となるとその分っているはずのものまで分らないのであるからなさけない。国家のためにやることはどのようなことでもよいことであるというような妙な信念によって、相手の迷惑もなにも問題とせず、我儘放題のことをいうとしか考えられないけれども、それにしても中国はあくまでも中国であって日本でなく、中国人はどこまでも中国人であって日本人でないという程度の常識があれば、ある越えてはならぬ一線があるという位は分らねばならない。だから、こういう人達は中国を外国と思わず、中国人を外国人と考えていないと見なければ納得がゆかなくなる。自国も他国も識別がないというよりは、自国で許されぬことも他国でなら平気であるという考え方は、いかに善意に解しても侵略的といわなければならない。それを侵略的と意識していたものは論外とし、意識してはいないにしても神経が麻痺して知らず識らず侵略的になっていた日本人が数において圧倒的であったということが出来よう。そうした雰囲気にあってたまたま常識通りのことをいうものがあるとすれば、そのものは異端者扱いにされ、時によると非国民呼ばりをうける。


 常識が引込んで非常識が通り、正論が斥けられて不正義の言論が喝采をうける。こういう変質日本人から親日家と銘打たれることが中国人から漢奸とされる大きな原因であったろう。


 凡そ個人の交際において、双方ともに独立の人格を備え、互にその人格を尊重することは基本的の前提条件でなければならぬだろう。もし一方が相手の人格を尊重せずというよりはこれを無視し、己の意のままにしようとしたならば、その結果はどうか。交際の決裂を見ることは明らかである。またそうした結果にならぬとして依然交際が続いていたとしても、それは表面上だけの交際であって、真の交際とはいい難く寧ろ隷属または従属の関係ともいうべきである。しかして独立せる人格同士の関係からならば、その個人の持つ影響力に聊かの異状もないが、それが一度隷属的関係にあるものとせば、その従たるもの影響力は解消してしまう。相手が一人前でないからである。子供と同じであるからである。日本の軍人官僚の多くのものは、中国人と接する第一歩において、台対等の人格を持つというように考えていなかった。あくまでも優越的地位に自らを置き、相手はいかなることでも承知するもの、承知すべきものであると確信していたろう。どんな場合にも、中国人の立場に立って考えて見たことがないであろうし、真の中国人なら到底容認することが出来ぬことでも平気で承諾せしめようとした。万一それを容認したら、それこそ漢奸となり、売国奴となって、少なくともそれ以後中国人としての影響力を失ってしまうような時でも、それを強要してやまなかった数々の実例をあげることが出来る。中国人と交際するのでなくして帰化日本人と交際すると何等擇ぶところがないわけであるが、どういうわけか、その方に興味が深かったことは争われない。こういう点について、私は過去廿年屢々指導的地位にあった軍人に適例を説いて注意を喚起したが、一二の例外を除いてはただ話として聞くだけで改められたことなく、相手の操を奪い、面目を潰し、しかしてそのものと手を握って快とし、自己満足に酔うているものが大多数であった。いな軍人のみでなく、官僚の多くもしかりであった。そうした独善利己的の考え方、やり方がいつの日か破綻を見るべき道理すら分らなかったのである。日本悲劇の基は無智、独善、貪欲などによって次第に醸成されたことこの一例をもってもうなづくことが出来よう。


〔羊群を追う〕


 一人の少年が一本の鞭を持ち数百頭の羊群をたくみに追いながら部落のわが家に帰ってゆく。シーシーと静かではあるが不思議にもよく通るかけ声がかかると群から離れた羊がたちまち戻って来て、もみあう群の中に入ってしまう。向うからも羊追いが来た。同じように少年である。数えきれないほどの羊群である。広い野原ではあるが、同類同族の親しみからであろう。双方から近よって、その本陣には異状はないが、まわりにいた羊達はいつとわなしに馴れあって一緒になる。同じ毛色、同じ大きさの羊である。混線したらどうにもなるまいと思っていると軽くはあるが、ややしかるようにシッシッといいつつ鞭を一二度振ると混雑していた羊の群がほぐれてそれぞれ自分の部隊に帰る。一頭の脱走もなく誤りもない。


 指揮者の命に従って。無秩序のように見える中に秩序正しく行動する羊群を眺めつつ成程人と羊とは全く一つになっていると感心せざるを得ない。


 もとよりこれはわが国のことではない。中国でよく見る例の一つである。羊に限らず、凡そ動物に対する中国人の取扱い方は極めて自然であって、動物の習性をよく理解し、動物の好みに応じつつそれに馴れるというようなやり方であるから、動物を扱っているものはその動物と他人ではなく、むづかしくいえば精神的融合が出来ているから、一体の実をあげることが出来るのである。


 かつて四川省を旅行した時、数百羽の家鴨を水田で遊ばせているのを見たが、これも前の羊追いと同じように一本の細長い竿を持って自由自在に遊ばせ、別の家鴨群とたまたま一緒になってもさわぎもせず、しばらく遊ばせたあげく、竿一つの使い方で各々の家鴨を一羽の狂いもなく連れて帰った。神技だなと驚嘆したのであるが、それは特別の天才というわけでなく、中国のあちらこちらにそのようなものはざらにある。しかしそこまでになるには決して一朝一夕のことではない。


 小さころから動物に対して特殊の親しみを持ち、愛情を持ってかゆいところに手が届くというような育て方をしてゆかなければ、その境地にまで到達し得ないであろうし、その手練の業は会得出来るはずがない。親代々そうした感情で動物を愛護するし、世間の一般もそうした気持ちで動物を見ているから、その環境の中で育つ人も動物も段々融け合うというのは当然の成行でもあるだろう。


 だがその根本において中国人が平和を愛好し、自然物に対する愛情の深さが然らしめるものというも誤りないであう。


 馬や羊は性来おとなしい平和的な動物である。馬が人を咬んだり、やたらに蹴ったりするものではない。


 牛だってあの角で人を突くというようなことは滅多にない。けれども暴れ馬となるとそうはゆかぬ。気の荒い牛も同様である。


 ところがわが国にはその暴れ馬が存外多いと見えて、馬に蹴られたとか咬まれたとかいうものが少くない。牛の角で突かれて怪我をしたということも割合に多い。往来に止っている荷車の馬にしたところが、なんとなく恐ろしく、なるべくそれを避けて通るというのが日本人の常識である。


 人も馬をこわがり、馬も人をこわがる。双方がこわがるから警戒し、警戒と恐怖とが錯綜して間違いをひき起すということになる。


 動物は自己の本能から自らを護るに敏感である。だから親しみを持って近よるものと警戒心を持って近づくものとの識別は人間以上にはっきりしているようである。普通によく見るところであるが、日本人は決して牛馬を愛して使役してはいない。必要以上に重い車を曳かせて、汗みどろになっている牛馬をさらに鞭打っているさまは寧ろ残酷である。あれではどこにも愛情が見出せない。


 牛馬の方でも、ぶたれてばかりいるから、性質も荒くなり、自然突いたり、蹴ったりするようになる。日本の牛馬と中国の牛馬とは生れつき違うかのように見えるけれども、これは牛馬に接する日本人と中国人との性質の違いが反映しての結果ということが出来よう。


 廿年も前のことである。アメリカの駐日大使館附武官バーネット氏の夫人は東京で動物愛護の提唱をし、自らその運動につとめた。


 日本に来てから街路上しばしば馬子によって馬が殴りつけられているのを目撃し、なぜそんなに虐待せねばならぬのか、ものもいわずよく働く動物に愛と同情とをよせるのが本当であるとして広く朝野によびかけたのである。いかにも恥かしいことである。


 当り前のことをすることも出来ず、することもせず、その当り前のことを外人に指摘せられるということはなさけないことである。しかもその運動の成行はともかくとして今日までの実際について見れば、いまだに動物愛護などというようなことは日本人社会にあって普遍化されていないことだけは確かである。こうしたことはなんとしても改めるようにしたい。性急な性格が、また自我の強い性質が、動物をして自分の欲するようにしたいというところから、愛情を忘れて殴りつけるようになるのであろうが、そうした人間の我儘はもう精算しなければいけない。


 動物にも自由を与え、民主の精神を生かしてやるようにしてやるべきである。動物本来の性質に順応し、理解と愛情とを持って育てるようにしてゆけば、動物の方でもよく人間に協力して働くようになるだろう。こうした点でわれわれは中国の一牧童の羊の扱い方を深く省察して見る必要があるような気がする。


# by jasminium14 | 2014-03-14 02:43

『蛙の眼』〔松葉いがし〕〔英雄の民主化〕

 昨年12月21日に亡くなった叔母を偲んで、祖父が昭和22年から23年頃に書いた随筆集『蛙の眼』をこのブログでご紹介することにしたのですが、叔母の49日が過ぎました。ちょうど月刊『リベラルタイム』3月号が届き、叔母のインタビュー「ベスト・セクレタリーの秘密④」を読んで、あらためてこの1年余りの叔母の闘病を思い出して胸が熱くなりました。本当に最期まで立派で美しくカッコいい叔母でした。

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〔松葉いがし〕


 虎の威を借る狐という言葉がある。虎が通るそのうしろから媚びるような目つきをして狐がついてくる。百獣の王といわれる虎のお通りだから、大小様々の動物はいつぱくつかれるか分らないから、その姿を遠く眺めただけで逃げてしまう。尊敬して道をあけるわけでないこというまでもなし。況んや虎のうしろに控えている狐が恐ろしいわけでもなく、敬意を表しているわけでもない。でも狐は大威張りである。例のやつらがなんといってもワシにはかなわぬものだから尻尾をまいて逃げ出すではないか。平素生意気なことをいっていても、いざとなればザマを見ろ、うろたえて駆け出す様子など見ていても吹き出さずにはいられない。狐の自慢はつきるところなしであるが、この狐に歯向うあわてものもいない。虎のうしろにいる限り虎と同様の扱いをしないわけにいかないからである。


 軍部はなやかであった頃、軍のまわりにもうしろにも甲乙丙丁の人がついていた。政党人あり、経済人あり、学者あり、文士あり、新聞記者あり、数えたてれば社会各層の人々が軍の鼻息をうかがいつつわが世の春を謳ったものである。世辞をいいさえすれば機嫌がよいのだし、調子を合せ、神憑りのようなことをいっていれば責められる。国家の将来がどうなろうか、そんなことはどうでもよく、必勝を説き、不敗を論じ、天佑神助論をやりさえすればよかったのである。方程式が簡単であるし、桃太郎以上にたやすく身内に引き入れてしまうので、誰れもかれも軍の袖にかくれる。積極的に悪をしないまでも、それらの人々によって流された害毒のいかにひどいものであったかは敢て説くを用いる必要もあるまい。ましてや積極的に軍を背景として悪をやったものの足跡がどのようなものであったか、その社会的影響がどうであったかは論外である。正直のところ、軍がやった非行以上の悪事が到るところで行われていたろう。動物にしても、虎の威を借りるようなやつは卑しむべきものとして排斥せられることになっている。それだのに人間社会の間でそのような種類のものをよしとして持てはやすはずがない。しかし世の中が紊れ、正直は損、木の葉が沈み石ころが浮ぶというような変態であれば、こうした誰れにも分る道理まで引込んで、存外な結果を生む。なさけない話であるが、かつての日本は正にその一つの変態社会であったろう。狐が威張る時には狐がばっこする。これは当り前である。だからといって狐つきが正しいということには決してならないのである。


 戦さに負けて軍が壊滅した。道理を忘れ、科学を無視し、神に憑っての御祈祷ばかりをやっていた日本が無惨にもたたきのめられたのは当然のことであった。負けてようやく国民の眼がさめた。狐つきが松葉いぶしに会って真人間に返ったわけである。というならば問題は至極簡単。日本人も確かに救われたであろうけれども、長い間の狐つきから解放せられても、余りにも長く動物的習癖に慣れてしまっていたので、俄かに人間らしい生活環境に置かれても、それが中々ピッタリと来ない。自然本当の人間になりきれず、枯葉を金と思って拾ったり、ボタ餅と思って馬糞を口に入れようとするものが少なくない。民主国家だの、文化国家だの、近ごろは流行のようにやさしい立派な言葉が使われているが、民主国家というのは国民の多数が良識を持つようにならなければ嘘である。文化国家と念佛のように繰り返して唱えていても、国民の文化教養の水準が高くならない限り駄目である。ところで、今の日本の社会そのものをありのままに見て、それで一体新しい日本が建設出来ると思うようなものが果してあるであろうか。社会におけるあらゆる問題の一ツ一ツを取上げて真面目に考えて見た時、これで日本の将来が明るくなり得るというような希望を持てるものがあるだろうか。もう一度松葉いぶしを全国的にやらなければどうにもならないというような気がしてならない。


〔英雄の民主化〕


 毎日新聞余録はいう。「日本人の感情では、貧乏の英雄や作業服の英雄では、何だかおかしい。呼ばれる方でもテレるだろう。日本では英雄といえば武将に限るように考えられていた。だがこの習慣的考え方が、まさに流行語の封建的残存思想の一つである。西洋では名もない一般民衆を英雄と呼んでも、さまでチグハグな感じはしないらしい。というのは、英雄が民衆化または民主化しているからである。武将だけが英雄ではない。どの方面からでも英雄が選ばれている。たとえばカーライルの有名な英雄崇拝論は北欧の古代の神人オーデン、予言者の英雄マホメット、詩人の英雄ダンテとシェークスピヤ、僧侶の英雄ルーテルとノックス、文学者の英雄ジョンソン、ルソー、バーンズ、武将の英雄クロムウェルとナポレオンを選んでいる。われわれも英雄の考え方を切りかえる時が来た。裏長屋にも農村のわら家にも無数の英雄がいる。新時代の英雄とはそういうものでなければいけない」。


 もとより英雄の字義からしても、武将の専門語ではない。辞源によれば、「すぐれる人物」とあり、大日本国語辞典には、「才能智力の絶倫なる人」とある。中国の人物誌には「聡明秀出セルヲ英ト謂イ、胆力人ニ過グルヲ雄ト謂ウ」と出ている。これらを見ても分るように英雄とは決して威張ったものではない。音楽の大家が英雄といわれてもいいのだし、労働者の中に英雄といわれるものがあってもよいのである。そうした中にたまたま武将が入っていたからというても差支えないわけであるが、確かに慣習というものは恐ろしいもので日本で英雄といえば、武人のみに限っていたことは余録の指摘する通りである。こういうことは即刻改める方が正しい。そしてもっと大衆的の英雄、人民と親しみを持つ英雄を見出し、その英雄に対する敬慕の普及化をはかるようにすべきではあるまいか。


 今から四十一年前すなわち一九〇七年にイギリスであった話。その年の晩秋、ヨークシャーのバンスレー近くにあるハイランド・シルクストン鉱山という石炭山の坑道奥深くにある汽罐室の屋根を支える大梁の取付け作業中、炭層が崩れて、なだれのように岩石が落ち積り、汽罐からは熱湯がこぼれ出し、多数の死傷者を出すという惨事が起った。真闇な地底は忽ち地獄のように救いを求める声や、断末魔の呻き声で凄惨な空気が漲っていた。フランク・チャンドラーはこの作業班の監督であった。平生から真面目で正直で親切であったので、誰からも親しまれ、誰からも慕われていた。そして昔の聖人フランシスの名をそのまま本名の代りとしてフランシスと呼び馴らされていた。そうしたかれにも非協力な男が一人いた。フレデリックである。かれは野卑で粗暴であったので仲間から毛嫌いされていたが、ある時規則を破ったため一週間の禁足を喰ったのと多年望んでいた取締の地位につけず、老坑夫フランシスの息子レオナードが年若くして取締になったのを逆怨みに思っていて、なんとかして監督を失脚せしめようとしていた。


 一瞬にして生地獄になったその中に放り出されて気を失ったフランクは、やがて意識を恢復するや、この最悪事態にあって持ち前の責任感から、傷ついたわが身も顧みず一人でも多くの坑夫を扶けようとして渾身の勇を振って起った。「皆どうした、皆逃げたか、レオはいないか、レオナード」と声を限りに叫んだ。すると奥の方から、「親方助けてくれ」と悲痛な叫び、「あっ、フレデリックだな、どこにいるのだ、こっちに来い」と手さぐりで声のする方に近づく。やっとさしのべた手にさわったフレデリックの手を堅く握りしめたかれは重傷で動けないフレデリックを身の痛みも忘れて背負った。その時、うしろの機械室あたりから、「お父さん」というかすかな声、「ウン、おおレオ」と血の出るように叫んだが、その声の方にゆくことも出来ない。やや安全な場所にフレデリックを運んだかれは、すぐにとってかえしてわが子の救助に向ったところ、真暗な地底から、「お父さん、危ないから来てはいけない。お父さん、僕は仕方ない、さよなら、ほかの人を助けて下さい、頼みます、ほかの人を助けて」ときれぎれにいい、「さよなら、お父さん」といったきり、もう愛するレオナードの声は絶えた。ああとかれは絶望的に自らもわが子のあとを追おうとしたが、ハッと厳かに胸に響いた声、「ほかの人を助けて」というわが子の声に、「おお、そうだ」と異常の勇を振って救助に全力をつくした。かれは最後に救い出されたが、火傷と打撲傷で見るも無惨な姿で病院にかつぎこまれる途中、他の坑夫の安否を気づかっていた。


 皇帝エドワァドは、イギリス産業の発達をはかるため、その根底をなす鉱山事業奨励に意を用い、皇帝御自身の名を冠した「キング・エドワァド勲章」を制定し、鉱山労働者中最も勇敢な働きをしたものに与えることにした。かくてこの光栄ある勲章の第一回受領者としてフランクが選ばれ、かれは群集歓呼の声を浴びながらバッキンガム宮殿に入り、皇帝に謁見し、握手を賜った上、尊いメダルを拝受したのである。人道の勇士、炭鉱の英雄として世人はかれに敬意を表した。


 イギリスのこの実例、山の英雄を皇帝自ら賞讃する。皇帝と一労働者との会見によって親しみと愛情とが生れ、そこにどのような国民感情が湧いて来るかということは改めて説くまでもあるまい。しかもかつてのわが国にこうしたことが想像され得たか。労働者にも英雄がある。農夫にもある。芸術家にもある。科学者にもある。学者にもある。社会各層に傑出した人がある。その勝れた人々に対し、国家として、社会として、その名誉を顕彰するというようなことは是非ともやるべきことである。英雄に対する考え方の封建性から脱却して、もっと自由に幅のある考え方に移らねば駄目である。


# by jasminium14 | 2014-02-09 00:52

『蛙の眼』 〔千や三ツの真実〕

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昭和34年(1959年)春、祖父が亡くなる1年前の写真です。

〔千三ツやの真実〕

 病気になった子供の看護に懸命となり、幾夜も寝ずに世話をした母親を感心なものだと誉めるのが普通である。わが子の病気を心配して世話をするのは当たり前のことで感心するには及ばないというてしまえば味がない。やはり感心なものは感心してやった方がよい。しかし病気にもいろいろあって、不可抗力によって罹る病気もあるし、不注意が原因するものもある。母親が平生よく注意していれば、健康であるべきものを不注意から大病にさせてしまったとしたら、いくらよく世話をしたからというても、そう感心だと誉めるわけにもゆくまい。日常生活の細かいことに注意し、健康に勉学にわが子を誤ることのないように養育する母親は、特に他人から誉められるような目立った行為がないから、感心だといわれることはないかも知れないが、実はその方が病気の世話をする母親より余程感心なのである。よく考えて見れば、こんな簡単なことの分らぬものはないはずであるが、世間一般の例をもってすれば、多くの場合、それが反対になって、自らまいた種のあと始末をしているに過ぎない親切がただ目立つという理由からして誉められ、本当に感心なものは中々人目に立たぬものである。

 途上たまたま小児がころんで怪我をした。通りかかったものがかけよって抱き起こし、懐からハンケチを出して血を拭いやさしく手当をしてその子の家まで送り届けたとしたら、家のものは感謝するだろう。これは確かに善事である。善事である以上、誰がやっても善事でかりにそれが兇悪な罪人であっても同じである。悪人であっても、たまにはよいことをするだろう。しかし、だからといって、それをもって善人とはいい得ない。世にいわゆる千三ツやというのがある。嘘ばかりついているものを指すのであるが、千三ツやというから千に二ツや三ツの真実を語る時もあるのかも知れぬ。しかしそのたまに語るニ三の真実をとりあげるものはなく、千三ツやの話など真面目に聞くものがないのは全く信用がないからに外ならない。これは前にあげた例と同じであって、平素嘘ばかりついているものに対して極めて当然な結論であるが、もしその反対にうっかり話にのるようであったら、そのものがただ笑はれるだけ、損をするだけである。

 こうしたことは誰にでも分りそうなものであるが、さて実社会の有様をみれば、不思議にも誤られることの方が多いのである。いつも平凡にして人の目に映らず、噂にも出ないで、平和な家庭を営み、家の子供達は皆健康であり、学校の成績もよろしいというようなら、それに越した楽しみはない。仕事をするにしても、真面目でいつも立派に責任義務を果しているというのが理想である。けれどもそうして一生を過すものよりも、とかく派手に仕事をしたり、人前で涙を流したり、祭礼の寄付を奮発したり、よく酒をのませたりするものの方が、少なくともあれはやり手だとか、あの人は人情家だといってもてはやされることだけは疑いをいれない。長い眼でものを見る。目前の事象のみに捕われず、すべての点から判断してゆくというような人は存外少く、瞬間的のことに耳目をそばたてて感心したり、腹を立てたりするのが普通の人の陥りやすい弱点である。そうした人達にとっては、心のまがったところを直してもらうような忠告や、足りない知識を補ってもらう話などよりも、甘いものでも、からいものでもお土産の一ツももらった方がどんなによろこび、どんなにありがたがるか分らない。特に腹の減りがちな時代にあっては、物質が即ち万能であって、精神的に余裕がなくなり、断片的な小利に目がくらみ、瞬間的な小善わけもなく感激しがちで、一見平凡のごとくして真に深みのある親切や、良識の下に行動する正しい個人主義のよさなどを認識することがむづかしい。こうした時代の悩みを解消することがなにを擱いても必要であるが、それには常識と良識を備えるように個々の人々が努力してゆかねばならない。
# by jasminium14 | 2014-01-27 00:42

『蛙の眼』 〔黄郛氏の夢〕

〔黄郛氏の夢〕

 話は一昔前昭和八年秋のことである。華北には行政院駐北平政務整理委員会が春から成立して黄郛氏が委員長であった。同じ北平には軍事委員会北平分会が設けられ、軍政部長何応欽氏が代理委員長として来ていた。軍事分会は軍務軍政全部を管掌し、政務整理委員会は政治経済及び地方的性質の外交全般を処理する権限を持っていた。黄郛氏は第二革命当時陳其美氏の軍参謀長を勤めたことがあり、蒋介石氏が参謀として共に働いたことがあるという因縁と国務総理をしたことがあるという政治的閲歴からであろう。蒋主席はすでに浙江莫干山に隠棲中であった黄氏を三顧して迎え、九・一八事変に引きつづいて華北の危機が迫った際、華北を救ふべく塘沽協定を締結し、黄氏をして対日折衝の矢面に立ってもらった。

 華北を諦めるということは国家の面目にかけても、国民の感情からしても、民族の名誉からしても到底出来ぬことであった。けれども自国の実力だけで失地恢復をやろうとしても、所詮不可能であることを十分承知していたので、寧ろ全くの無抵抗主義をとっていた。ところが日本の侵略は東北だけに止まらず、長城を越えて平津地方にまで戦禍が波及しそうな形勢となった。無抵抗といっても際限なく退却するわけにもゆかぬ。東北はともかく華北まで失っては大変である。といって東北問題を国際聯盟に提訴して何等の実効もないことを生々しく体験していた中国政府は、好むところではなかったろうが、日本政府と直接交渉することを避け、一時的弁法として関東軍と塘沽協定を結んだ。そして非武装地帯を設定したのである。

 正直のところ、関東軍がいかに横紙破りであっても、当時の内外情勢について全然無関心ではあり得なかったろうから、満州国を造って、さて今度は華北が欲しいとあっても、これを奪取するという野望まではなかったであろう。だからこの辺で協定が出来、非武装地帯という緩衝地帯を得たことは勿怪の幸であった。のみならず協定の締結者として特殊の発言権を確保したのであるから、それだけでも政治的効果は充分であった。関東軍はこの協定に附属して通車、通郵、設関問題を解決するという約束をし、協定を最高度に活用することによって、中国をし事実上満州国を認せしめようと意図した。中国にとっては、実際うるさい相手であった。乱暴者ではあるし、一を譲ればニを欲し、ニを得れば三を希望するというやりかたで肉迫し、執拗なねばりで押してくるのであるから、余程警戒用心しても押され勝になる。しかも国内の空気は険悪で、下手な妥協をやれば輿論の反撃を真っ向から浴びせかけられる。当事者としてこんな割の悪いことはない。こんな馬鹿らしいことはない。凡そ出世前の人には背負いきれぬ重荷である。その故にこそ元老であり、対日認識の深い黄郛氏が態々北平に来たのだし、蒋委員長の股肱であり、同じくに本通の何応欽氏が陸軍部長の現職をもって北上したわけである。黄氏にせよ、何氏にせよ、性格的に誠心誠意の人であるし、世界の大勢に通じ、特に極東問題についても見識の高い第一人者であった。このやうないわば取って置きの人物を送派したのも、華北の重要性を深く心にとめ、対日協調を得たいとの念願が蒋委員長の胸中にあったからであろう。

 同年夏から協定附属の懸案についての交渉が行はれた。中国側は殷同氏をはじめとする委員数名、日本側は嵯峨大佐、柴山中佐らである。根本大佐は黄氏引出しを側面的に援助した関係から北平にあったものであり、嵯峨大佐、柴山中佐らと共に陸軍内における中国通、しかも三人共穏健中正で、所謂積極派からは異端視せられていたものである。そのことは中国側にもよく知られていたし、事実かれらは中国側の立場を理解し、尊重し、力をもって無理にも承知せしめるというような方式をとったことはない。けれども、かれらとても全権を持つ委員ではなし、指令訓令を出す関東軍の幕僚部には奔馬が揃っていて、矢鱈に強硬意見を吐き、二言目には断乎たる手段だの、措置だなどというて、それはならぬ、あれはいけないと電訓して来るので、板挟みになって困ったことも度々あり、中国側を刺激するような発言せざるを得なかった事が少なくなかった。その都度中国側委員はにがり切って黄氏のもとにゆき、興奮しながら報告し指示を受ける。黄氏は自分の立場が悪くなるのを承知しながら、あくまで我慢自重を説いて協調せしめた。それも大問題なら兎も角協定条文中の一ニの文字などについて、強いて頑張る必要のないものまで訂正せしめなければならぬというようなことがあって、どうして日本はこんなつまらないことにまでこだわって中国側を苦しめるのだろうかと嘆声を発しせしめたことがしばしばであったらしい。

 ある日のこと、両国委員が外交大楼で交渉していたときのことである。黄郛氏や、何応欽氏らは別室で休息していたが、そのうち黄氏はソファーに倚りかかったまま転寝をした。ふと眼を覚ました黄氏は微笑を含みながら、「イヤ面白い夢を見た」と前置きして今見たばかりの夢物語りをした。

「十年たってからのことであるが、中国はイギリス、イタリーと同盟を結んで日本と戦争し、最後の栄冠を得て、かつて失われた領土を悉く奪還し、日本の帝国主義的野望を完全に封殺した」

 夢の要旨はこれであった。側らで聞いていた何応欽氏はじめニ三のものは思はず破顔一笑し、日夜憂鬱不愉快な気分に閉ざされていただけにこの時だけは明るく朗らかにその吉夢をよろこんだのである。するとやがて何氏が口を切った。

 「それは本当によい夢です。しかも将来必ずその夢が実現する秋があるでせう。ところで十年後といへばわけはない。すぐに十年位はたってしまう。さて十年後の中日戦争といへば自分はまだ五十代の働き盛りである。勿論自分は総司令官として全軍を指揮するであろうが、戦勝の暁には一ツ日本国民が吃驚するような寛大な条件を出して和を結ぶようにしたい。これが詐りのない自分の心境だ」

 何氏のこの言葉は同席者の胸を打つものがあった。今は日本から情容赦もなく痛められているが、どうして日本人は中国人の立場に立って物を考えるだけの余裕がないのだろうか。つまらないことにまで干渉し、中国人を最後のどたん場まで追いつめなければ気が済まぬといういやな性格なのだろうか、とは中国の誰しもが共通に考えるところであった。かくもさいなまれ、苦しめられていただけに、黄氏の夢について何氏が中国が勝利を得ても、今の日本のような思いやりのない態度はとらない、むしろ日本人が想像出来ないような同情ある処置をとり、その時はじめて今の中国人の気持ちを諒解させるようにしようという気分が合点せられるのである。

 この秘話適々同席していた陶尚銘氏から聞いたが、夢にせよ日本が負けた等といったことが知られて黄氏らに迷惑がかかっては相済まないので、独り胸奥深く秘めていた。ところが数年ならずして七・七事変が起った。また数年ならずして太平洋戦争となった。黄郛氏の夢にいう中国とイギリス、イタリーの同盟は多少違ってはいたが、中国とアメリカ、イギリス、ソ聯等の聯合が成って正しく日本は惨敗し、中国は戦勝の光栄を得た。さらに何応欽氏は十年前予言したように中国軍の参謀総長兼司令官として親しく陣頭に立ち、日本軍の無条件降伏を受け、在華日本軍の武装解除をする最高責任者となった。因縁ほど恐ろしいものはない。塘沽協定締結の関東軍代表が岡村寧次大将(当時少将)で、かれが日本軍総司令官として麾下の全軍を代表し何応欽上将に投降したのである。南京で投降式が行はれた時、受降総司令官として何上将が、岡村大将の恭しく献ずる軍刀を受け、岡村大将が命令書に署名するのを見て、果して如何なる感慨があったろうか。また岡村大将の感慨は如何。

 蒋介石主席の「暴に酬ゆるに暴を以てせず」の訓示は、放送に依る声明によって中国全土に徹底し、中国の軍政当局もよくこの主旨精神を体して、日俘日橋の保護、送還に万全をつくしてくれたことは人のよく知るところである。これは多くの日本人の意外としたところであり、また感激したところであるが、かつての日、何応欽氏の言うた言葉を知っている私としては、さらには中国の国民性のよさ、ゆとりのあることを知っている私としては、別の感慨なき能はざるものがあった。それにつけても中日和平のために献身的努力を払った黄郛氏が今日を見ずして七・七事変前海上で逝ったことを寂しく思いだす。
# by jasminium14 | 2014-01-24 21:59

『蛙の眼』 〔常識難〕


〔常識難〕

 多数のものがよしとしたところに従うてゆくことが民主政治の特質であるとしても、その多数のものが民主的の自覚のない人達であるとし、無責任な方向を決めてそれに全部のものが引ずられてゆくとしたら、世にこれほどの危険はない。気狂い病院に行って、この不幸な患者の多数に接しているといつのまにやら病人ではない普通の人が却って自らおかしいのではないかという錯覚に陥ることがあるということである。しかし、どんなに自らおかしくても、自分を除く他の全部のものが反対の行動をしたところでそれに従う必要がないばかりか、真面目に取上げるべき性質のものでもない。そこでは常人に非ざる患者というレッテルがはられている。その人達は世が民主時代となっても、別に患者取扱規則上の変化もなく、私達の世界とは隔絶しているからである。

 このように常人と非常人とはっきり区別のつくような場合はよろしい。ところが一般世間ではそうした区別もなく、また区別をつけるわけにもゆかず、それでいて、常人ならざるものが存外多いようであるから、面倒なこと、厄介なことが頻発するのである。

 近頃流行のように自由だ、平等だといわれる。新憲法によって基本的人権が確立されて個人の自由が尊重せられ、法律の下に男女等しく平等であることが定められたのであるから、自由平等が流行語のように使用せられることに不思議はない。しかし、そのいわゆる自由なるものは勝手気儘という意味ではなくして、少なくとも叡智と秩序と責任とを伴うものであることは常識あるものの当然心得ていなければならぬところのものである。叡智のひらめきのない即ち良識のない自由は危険である。自分が負うている義務の履行をせずして、ただ権利のみを主張するのは決して正しいことではないが、良識のないものにそれを説いて聞かして見ても素直にうけとられることはあり得ない。

 戦さに負けたお陰でまことに結構な権利を授けられたわけであるが、国民の全般的常識の程度が低く、教養の点に多大の缺陥を持っているので、正直のところ民主主義も聊か持てあましの気味であるというのが恥かしながら今日の実情である。

 民主日本の建設はこうした社会の環境下にあって、これからいろいろの障害が発生し、苦労も多いことだろう。不断の忍耐努力が必要であるといわれるが、正に然りで、いくらあせっても国民の常識水準が高まらなければ、どうにもならぬし、教養程度が向上しない限り駄目である。

 言葉の上では、文字の上ではどのようなことでもいえるし、形だけを作るならば、これほど簡単なことはないが、魂の入っていない人形のような民主日本を作り上げたとしたら、それこそ百年の悔を残すこととなる。

 頑固で非常識なものを一時間、二時間いろいろに説いて、ようやく道理を納得せしめたとしても、その頑固人が同じ種類の人に出会ってそんな道理があるものかといわれると二分か三分でまたもとの非常識人に早変りするという例を世はしばしばこれを体験する。

 忍耐努力がいかに厄介なものであるか、余程の寛容精神をもってしてもあきれていやになることが多いだろう。だからといって諦めてしまえというわけにもゆかぬのが民主日本建設の大業である。そこで良識のあるものには進んで指導的の任務についてもらいたい。

 是を是とし、非を非とする尋常のことを勇敢率直にいってもらいたい。利己的な非公共性の言動に対してもっとはっきりと批判もし、排斥もするような社会的習慣を生み出すようにしてゆきたい。そうしたことを絶えず繰り返してゆくうちに段々と頑固な非常識人が減ってゆくようになっても来よう。

 食糧難もさることながら、それにも優るとも劣らぬものが常識難である。この常識難を救うことを教えずして民主主義だの、文化国家だのということは滑稽千万である。なにもかにも危機づくめだが、この常識の危機を改めて教え、これをいかにして突破するかを今日の課題として取上げなければならないだろう。
# by jasminium14 | 2014-01-23 01:46